其の1 菅原 進という男

漁師への道

船長、菅原 進(すがわら すすむ)は、宮城県気仙沼市大島で生まれました。幼い頃から島の山・海を駆けずり回り、あらゆることに興味を持つ少年でした。

中学の時、高校への進学を考えていましたが、家が貧しかったこともあり進学を断念しました。
そのため卒業後は、気仙沼港近くで木造船に乗って漁を手伝うことにしました。漁の手伝いをしていると、次第に広い海への憧れが芽生え始め、その当時日本でも1番厳しく狭き門と言われていた、機関士の国家資格を横浜港で取得します。
機関士としての実績は、南極観測船(2代目富士)の機械整備の点検を行うほどの腕前でした。
その後マグロを獲るために世界中の大海原を航海し27歳で結婚します。
一度マグロ船に乗ると2年は帰って来れません。漁の途中で長女が産まれた知らせを聞くも、最初に会った時は既に歩けるようになっていました。
この頃から、家族の側で船に乗って働ける仕事がないか考えるようになります 。

代しらとり

ある日のこと、知り合いの鉄工所から古い船を譲り受けます。
この船のエンジンなどを一人で何日も整備し、生れ変わらせました。
船の名前は「しらとり」と言います。
「しらとり」と一緒に何か仕事が出来ないか考えていた時、妻がこぼした話を思い出します。

譲り受けた頃の「しらとり」

時船の開業

大島は気仙沼市内から定期船で行くしか交通手段がなく、最終便の18時30分に乗り遅れるとその日のうちに大島へ帰る事が出来ません。島の大勢の方が気仙沼へ働きに行っており、お酒を飲んだり会合がある時は、気仙沼市内へ宿泊しなくてはならずとても不便でした。
そこで菅原は考えます。遅い時間まで出航する臨時便の定期船を走らせば、大島の人のためになり、自分も家族のもとで働くことが出来ると。
この思いで一念発起、マグロ船を降り、昭和45年臨時船の運航をはじめます。

ひまわり号誕生

菅原は大島と気仙沼までの足となり、頼まれれば何でも引き受け送迎をします。
島で急病人が出たり夜中のお産の際も走らせます。
次第に島にとって無くてはならない存在となったのですが、船が小さかったため、より丈夫で大きな船を作ることを考え始めます。
その船を作るため、再度2年間マグロ船に乗り資金を貯めて、念願の船作りに着手しました。客室は廃車になったバスの椅子や手すりを用いるなど全て手作業で作ります。
こうして完成した船は「ひまわり」と名前が付けられました。
再開した臨時船は、以前に増して島の足となり、朝から晩まで走ります。

菅原 進とは、誰よりも大島を愛し、人々が「ひまわりさん」と呼ぶほど親しみやすく優しい男なのです。

其の2 ひまわりと共に へ続く