其の2 ひまわりと共に

2代目ひまわり号

ひまわりは船長菅原と一緒に、海のタクシーとして毎日大島と気仙沼の足となり走りました。朝も夜も頼まれれば走ります。
こうした毎日を繰り返し15年が経ちます。この頃は、最新型の高速船が気仙沼港を行き交う時代になってました。
菅原は思います。「お客さんのためにも、もっと速くて安全な船が必要だ」と。そして早々に行動に移します。こつこつお金を貯め、次なる船の製作に取り掛かかるのでした。
「速くて安全な船」それは強化プラスチック製の物になりました。
客室においては、今度も廃車になったバスの部品を調達。リクライニングが出来る椅子を取り付け、大きな窓のついた客室も設けました。

そして遂に頑丈で広く大きな「2代目ひまわり」が誕生します。
「しらとり」から数えると、3艘目の菅原号のお目見えです。
2代目ひまわりも、連日大島の人はもちろん観光客の足となり、皆に愛される船になりました。

あの日、3月11日

2代目ひまわりの竣工以来、順調な毎日を過ごしておりました。
しかし、数年前から胸騒ぎを覚えはじめます。不安に怯え、それが何かわからず過ごす日々でもありました。
その日も出航するまで数時間あるお昼過ぎ、自宅で身体を休めていました。
何気ないいつもの時間でした。
突如、聞いたことのない地鳴りが地の底から菅原を襲います。次の瞬間激しい揺れが、菅原を、家を、庭を襲います。
地震です!大地震です!考えられないほどの大地震です。
2011年3月11日、午後2時46分、三陸沖の太平洋を震源としたマグニチュード9.0「東北地方太平洋沖地震」が発生しました。
津波だ!津波が来るかもしれない。
そう直感した菅原は、 全く揺れが収まらない状態で、一緒に居た三女へ孫を連れて高台に逃げるよう指示を出します。次に近くの民宿へ仕事に行っている妻のことを思います。でも迎えには行きません。昔から地震の多い三陸海岸地域では、津波が来た時は誰かを待たず、自分の命を守るため、まず逃げることが大事だと伝えられています。きっと妻も逃げているはずだと信じたのです。
緊張で震える身体に喝を入れ、浜辺の水門を閉めるため走りました。普通なら3人がかりじゃないと閉まらない水門を1人で閉めます。既に浜は大きな音を立てた波が寄せて来ていたので、津波が来ると確信しました。

いつもは穏やかな船着き場。ひまわりも静かに停泊しています。

沖へ行く

車を飛ばし船着き場にあるひまわりの様子を見に行くと、押し波が近づいて来ていました。島の人々はパニック状態になっていて、手を繋ぎり走る人、車やバイクを使って高台へ避難する人達でごった返しています。
「津波が来たら沖に出ろ」 漁師たちの間で言い継がれてきた先人の教えがあります。「沖出し」と言います。 津波が来たら、船は沖に向かへば安全と言われているのです。ただ、それは勇気のあることでした。
ふと辺りを見渡すと、周りの船はそのまま停泊した状態です。このままでは全ての船が犠牲になってしまう。そうなると大島の足が無くなってしまう。そう思った菅原は、沖へ行く決断をします。

振り向かず前だけを

覚悟を決めて向かう海は、真っ黒な色で渦を巻いている状態でした。強い風も吹きはじめ、押し波に流され舵を取ることが困難でした。
津波は速度を上げて目の前から迫って来ます。丸太、自動車、家、大型船が次々に流されて来ます。異様な光景でした。
「もう自宅はダメだろう」「家族は無事だろうか」「島はどうなっているのか」心の中で繰り返し思います。
でも全身全霊、 振り向かず、前だけを進むことに集中します。
いくつもの波を超えるも、その脅威的な相手に「もうダメだ」と、救命胴衣を着て海に飛び込もうとさえ思いますが、ひまわりと運命を共に、死ぬつもりで前に進みました。
目の前に高さ15メートルの大津波が立ちはだかります。意を決して 一気に駆け登ると、頂上まで登りきることが出来ました。波に乗り、そのまま身を任せるとひまわりが波を下って行くのでした。大津波を超えた瞬間です。
そのまま油断せず舵を取ると、6、7メートルの津波が現れましたが、今度も登りきり下る事が出来ました。この攻防戦を繰り返している時、携帯電話に三女からの電話が鳴ります。地震発生時、孫を連れて高台へ避難する事を指示した三女です。あの時「俺もすぐに行く」と菅原は伝えていたのですが、一向にやって来ない父を心配で、何度も電話をしていたのです。でも、回線が混み合っているため全く繋がらず、やっと繋がった瞬間でした。一瞬の二人の会話ですが、三女は父が生きていることを確認出来て安堵し、菅原もまた家族が全員無事である事を知り安堵しました。

引き波

大島の状況は、菅原が沖へ出発して間もなく大津波が襲来しました。海沿いの家屋や車を一瞬にして飲み込み、見る見るうちに島をドロドロにして行きます。
島の人々は、各避難所へ避難していましたが、停電で暖を取ることが難しい状況でした。気仙沼市街は重油が流れ出し、日没から火の海に覆われました。

津波で怖いのは引き波です。島を飲み込んだ波は、渦を巻いて沖へと帰って行きます。つまり、ひまわりが乗り越えた津波は、引き波として戻って来るのでした。しかもガレキの山を引き連れて。舵が思うように効かず、間もないうちにずるずると沖へ流されて行きます。「このままではニ度と島へ帰る事は出来ない。」そう思った菅原は「潮目」に向かうことを決めました。「潮目」とは、異なる潮流が接する場所(目で見てわかる、泡立ちや色が違っている節目)で、安全な場所と言われています。潮目までは距離がありましたが、ガレキにぶつからないよう慎重に進みました。ようやく潮目に辿り着き、波が収まるまで静かに待機しました。気を取り戻し気仙沼方面へ目をやると、真っ赤な炎が見えます。悲しい気持ちと不安な気持ちを抱きながら、ここで一晩過ごしました。

其の3 東日本大震災の後 へ続く