其の3 東日本大震災の後

姿を変えた島

潮目で一夜を過ごし、ひまわりと共に生き延びた菅原。
辺りが明るくなって来た翌朝、それまでの荒々しさと違い、海はいつもの穏やかさを取り戻していました。しかし、そこは流されて来たガレキの山で、一人現実を目の当たりにしました。
気持ちを整え冷静になり、ひまわりをゆっくり走らせます。 家族や仲間の事を想いながら島へ帰ります。島へ近付くにつれ、大型船2艘が堤防を乗り越え打ち上げられている様子、港近くの商店街が全て消えている姿を目にし、ここが何十年も過ごして来た故郷と思えぬ想像を超えた光景で、胸が張り裂けるようでした。

島へ打ち上げられた大型船

変わりはてた島へ15時間振りに立ちました。
地震の後、船着き場まで乗って来た車はありません。
今自分に何が起きているのか、ただ、茫然と立ちすくむだけでした。
しばらくして背後から、菅原を呼ぶ大きな声が聞こえて来ます。一晩中心配をしていた妻でした。家族が全員無事だったことを知る菅原は、ふと我に返り「俺は島に帰ってこれたんだ」と思います。

走り出すひまわり

沢山の家が流されました。菅原の家も流されました。
この災害は「東日本大震災」と呼び名が付けられます。
これから家族の暮らしをどうしようか考えていた時、妻の働く民宿の奥さんから「空いている建物で一緒に暮らそう」と声をかけて頂きます。このご厚意に甘え共同生活が始まります。こちらの民宿も1階まで津波が浸水し、営業再開は当分先になり大変な状況ですが「困った時は共に手を取り助け合う。」 東北人の持つ優しい 気持ちが先行しました。

海の男菅原は、ガレキ撤去のためひまわりがいる港に居ました。
普段なら沢山の船が並んでいるのですが、ひまわりだけがぽつんと繋がれています。大島は完全に孤立しており、テレビは映らず新聞も届かず携帯電話は繋がりずらい状態でした。津波の影響がどのくらいの規模だったのか?気仙沼はどうなっているのか?大島から気仙沼へ通う島民はどうなっているのか?全くわからない状態でした。

心配になった菅原は震災から2日後、ひまわりで気仙沼へ向かいました。予想していたものの、気仙沼港一体にあった市場や工場が津波に流された惨劇の後でした。
気仙沼港へ停泊すると、ボーボーとエンジンを鳴らすひまわりを見つけた人達が次々にやって来ました。 気仙沼と大島を渡る大型フェリーが流され、大島へ行けない人達です。皆、島の様子や島民が心配で菅原にすがりつきました。
この時決意しました。「皆のためになるのならひまわりを走りだそう!」と。
こうして大島へ渡りたい人達が、続々とひまわりに乗り込みました。

菅原とひまわりはこの日から無料で、毎日、何往復も大島と気仙沼の足となりました。「無料はいけない」と、お金を渡そうとするも受け取らない菅原でした。「被災した人からお金は貰えない」「みんなのために走らせたい」その気持ちだけでした。それでもお金を置いて行かれる方もおり、そのお金は被災地の寄付金に充てました。
ひまわりがあの津波を超えたから、震災後大島の人達の足になったのです。

祈り

ひまわりの中には神棚があり、運航する前は必ず神棚に今日の無事を祈ります。

菅原が毎日ひまわりを走らせる目的はもう1つありました。
それは、津波で行方不明になった人の捜索です。何名かの遺体を発見しました。
その中には孫のお友達もいて、無念で仕方がありません。
遺体を発見した時は、走りを一旦止め、ひまわりで周りを回りながら、乗客と一緒に目をつぶりお経を唱えます。

菅原は僧侶に教えて頂きお経を覚えました。
毎年3月11日は、海に向かいお経を唱えます。「人へ・町へ・海へ」色々な想いを胸に込め祈ります。この想いはこれからもずっと続きます。

あとがき

本ホームページを制作するにあたり、菅原 進氏に全てのお話を聞き製作を行いました。また、参考資料として「佼成出版社」発行の「津波をこえたひまわりさん」を拝読しました。より細かい詳細を知りたい場合は、本書をお読み頂くことを推奨致します。